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ホタテバーガー☆ミ

ホタテバーガー☆ミ

文久3年(1863)

文久3年(1863)29歳

旧暦新暦天気出来事
1.2 2.19  容保候、新年の挨拶のため初めて御所に上がる。孝明帝より「純緋の御衣(じゅんびのおんぞ)」を賜る。天皇が武家に「純緋の御衣」を与えるのは江戸幕府始まって以来のこと。孝明天皇の信頼がそれだけ厚かったと思われる。     
1.7 2.24  松平主税介、幕府より浪士募集の命を受ける 会津藩公用方が京都に設置される
1.10頃 2.27  歳三、小野路の小島鹿之助に年賀状を送り浪士募集の情報を伝える。
1.15 3.4   歳三、小野路の小島家から刀剣一振り借用する。上洛の挨拶
1.16 3.5   勇、小島家より鎖衣を借用する
1.17 3.6   山南、沖田、小島家を訪れる
1.19 3.8   近藤、浪士取締役の山岡鉄太郎に呼び出され面談。
2.4 3.22  江戸小石川傳通院付属大信寮において浪士会合す。松平主税介、浪士取扱を辞任。
2.5 3.23  夜、傳通院で諸注意を受けると共に、浪士組編成完了。近藤は池田徳太郎、佐々木如水と共に先番宿割係。三番新見組に井上、沖田林太郎、六番芹沢組に山南、土方、沖田、永倉、藤堂、原田、平間、平山、野口ら 小島鹿之助、送別に試衛館を訪れ宿泊。
2.7 3.25雨後晴勇、歳三、馬場、中村、井上らが出発を翌日に控え、近藤周助の家に集まる。
2.8 3.26清河八郎以下浪士組総員朝五ツ半に傳通院出立、中山道を京に向かう。この日行程七里で大宮泊。土方は三番組
2.9 3.27  鴻巣宿泊
2.10 3.28本庄に泊まるも、先番宿割の近藤勇ら、芹沢鴨組の宿を取り忘れる。芹沢は激怒して道路で大焚火
2.11 3.29  松井田宿泊 容保候、尊攘激派のテロに怯える京都市民のため会津藩士たちに市中見回りを始めさせる。
2.12 3.30  追分宿泊
2.13 3.31  長久保宿
2.14 4.1   下諏訪宿泊。この辺りまで石田散薬の行商で来ていた。
2.15 4.2   奈良井宿泊。火の用心の通達がなされる。
2.16 4.3   須原泊
2.17 4.4   この日、馬篭の宿を通過して中津川泊まりとなるが、芹沢鴨三番小頭を罷免され後任に石坂が廻り六番組に、三番小頭に近藤勇が当たり、隊士らは六番組から移る
2.18 4.5   伏見宿泊
2.19 4.6   芹沢鴨、取締役に任じられる。土方、沖田らの六番組小頭に西恭助が任じられ、勇は先番宿割に復す。加納宿。
2.20 4.7   近江柏原宿泊
2.21 4.8   武佐宿泊。夜、祝い酒が振舞われる。
2.22 4.9   大津宿泊。 万年山等寺院より尊氏、義詮、義満の木像の首級が斬奸状と共に三条河原にさらされ三条大橋南側制礼場に罪状が張り出される。
2.23 4.10晴曇夜明けと共に大津を出立して朝四ツ(10時)京に入る。新見組は雀塚の更雀寺宿泊、土方、沖田らは八木源之丞宅に入る。新徳寺本堂において清河八郎演説する
2.24 4.11  清河、学習院に上書を提出し受理される
2.28 4.15  西恭助六番組を罷免され、勇が小頭に再任。土方・山南・総司・永倉・藤堂・原田・平山・平間・野口は八木邸が宿舎になる
2.29 4.16風雨午前中勇組御所拝観。午後は井上ら新見組が拝観。 夜、清河が新徳寺に呼び出し「このまま戻って攘夷に備える」近藤派反対する
2.30 4.17  清河、浪士組東下希望の上書を学習院に提出
2月    「生麦事件」の賠償としてイギリス、賠償金十万ポンドを要求。薩摩藩にも下手人の処刑、賠償金二万五千ポンドを要求。 老中並の小笠原長行、独断で十万ポンドを支払う。が薩摩藩は応ぜず。
3.3 4.20浪士組東下の達しが下りる。 清河と決別。鵜殿鳩翁、会津藩に伝達を約束。 老中板倉勝静、会津藩から清河暗殺令が下る。のちに決行を試みるが同道していた山岡鉄舟が「御朱印」を持っていたため刀を抜けなかった。
3.4 4.21将軍家茂入洛。井上松五郎将軍警護として随行入洛。この頃、斎藤一ら浪士組に加わる
3.6 4.23井上松五郎、壬生の浪士組を訪ねて懇談する。浪士組の江戸帰還が延期される。
3.8 4.25家里次郎と殿内義雄の両人、京都残留希望者を募る事を鵜殿鳩翁より命じられる
3.10 4.27老中板倉勝静は京都守護職松平容保の浪士差配の命下す。芹沢、近藤ら京都残留の嘆願書を京都守護職へ提出。芹沢鴨、近藤勇、新見錦、平山五郎、山南敬助、沖田総司、野口健司、土方歳三、原田左之助、平間重助、藤堂平助、井上源三郎、永倉新八、佐伯又三郎、根岸友山、斎藤一、家里次郎、遠藤丈庵、殿内義雄。(会津藩庁記録「密事往復留」記載)粕谷新五郎、阿比留鋭三郎の名前はないが「志大略相認書」には有り、17名となっている
3.11 4.28  攘夷成功祈願賀茂の行幸
3.12 4.29  芹沢、近藤ら京都守護職御預かりとなる
3.13 4.30曇後雨清河八郎ら京都を出発し東帰。近藤、土方、井上、松五郎を訪ね酒宴
3.15 5.2 正式に会津藩の配下になる。芹沢、近藤ら守護職邸に挨拶に行くも不在。公用方と面会
3.16 5.3 芹沢、近藤ら京都守護職松平肥後守容保に拝謁 松五郎、壬生に近藤らを訪れる。
3.19 5.6 歳三、四条南座で井上兄弟と芝居見物後、酒宴
3.22 5.9 将軍家茂帰東諌止の建白書を板倉勝静に提出。家茂の帰東は延期。建白書の連盟は芹沢、近藤等18名。
3.24 5.11雨後晴近藤、沖田、四条大橋で殿内義雄を斬る
3.25 5.12会津藩士本多四郎ら6名が壬生を訪れ面談、皆で壬生狂言を見物。昼食を共にする
3.26 5.13近藤勇、郷里へ「志大略相認書」を認める。歳三は小島鹿之助、橋本道助宛に手紙を書く(委細ハ近藤より奉申上候・・・)「帰着あいならず候わば、大慶とおほしめくださるべく候」
3.27 5.14近藤・井上ら、松五郎を訪れる
4月    上旬より会津藩兵の夜回りに列に加わる。
4.2 5.19曇雨大坂平野屋五兵衛へ近藤、芹沢、新見、土方、野口、沖田、永倉らと出向き、100両押借り。(これで隊服を作ったらしい)近藤らと松五郎に会う。夜帰京
4.6 5.23阿比留鋭三郎病没
4.8 5.25八木家の童女の葬儀に近藤、芹沢ら参列する。 歳三、源三郎両人、井上松五郎の旅宿を訪問
4.10 5.27土方、再び源三郎と松五郎方を訪れ、芹沢のことをグチる
4.11 5.28薄曇晴攘夷祈願のため石清水八幡宮へ行幸する孝明天皇の道中警備を仰せつかる
4.13 5.30清河八郎、江戸赤羽橋で佐々木只三郎らに殺害される
4.16 6.2 晴天容保候の召しによって隊士全員が黒谷の会津藩本陣へおもむき武術の稽古を披露。
剣術1、土方歳三―藤堂平助  2、永倉新八―斎藤一 3、平山五郎―佐伯又三郎 4、山南敬介―沖田総司 他柔術、棒術など
「御覧相済候而、御酒頂戴有之、夕陽に至り壬生村へ立戻候。」
夜、上洛していた松五郎を土方、沖田訪ねるも留守のため置手紙をして帰る。
4.17 6.3 早朝、松五郎の訪問を受け、土方、井上、沖田、山南、斎藤、朝から田中茶屋で酒宴。天狗になった近藤(芹沢よりになってしまったこと。との説あり)のことをグチる
4.20 6.6   幕府、尊攘派の公家の圧力により5月10日に攘夷を実行する事を約束させられる 歳三、井上両人、松五郎を訪ね浪士組問題を相談
4.21 6.7 家茂摂海巡視のため下坂、近藤らは警護を務め(揃いの一重姿)大坂八軒家の船宿京屋忠兵衛方に滞陣
4.22 6.8 井上松五郎、京屋に土方、源三郎を訪ね、沖田と共に昼から新町の廓(九軒町吉田屋)に登り、遊女(天神)を買う
4.24 6.10家里次郎大坂にて詰腹を切らされる
5.11 6.26  長州藩、この日のアメリカ船砲撃を皮切りに23日フランス船、26日オランダ船を砲撃 家茂巡視を終え浪士組の警護で帰京
5.22 7.7 沖田、井上両人、井上松五郎を訪ねる
5.25 7.10  隊士総員35名連盟で幕府に攘夷断行と神戸港開港反対の上書を提出
5末    隊編成 隊長:芹沢、近藤 副長:新見、山南、土方 組頭:沖田、永倉、藤堂、原田、斉藤、平山、野口、井上 勘定方:平間重助
最初の隊士募集時:島田魁、安藤早太郎、林信太郎、山崎烝、松原忠治、河合耆三郎ら50名
6月    列強の長州藩への報復始まる。1日にアメリカが、5日フランスが攻撃。これにより長州藩は軍事力の差を痛感、攘夷を捨てイギリスに急接近する事になる
6.2 7.17午後雨歳三、雨の中守護職邸に出向き、帰途駕籠で井上松五郎を訪ねる。
容保公、伝奏より呼び出され小笠原図書頭挙兵を抑えるように言われる。小笠原は将軍家茂の東帰を促すため、開国することを天皇に直に説得するため慶喜と謀って兵を率いて京へ赴いた。そして尊攘派浪士を一掃し、さらに御所を包囲し武力で攘夷の転換を図ろうとしていた。会津・桑名藩はこれを阻止。これにより家茂は東帰し、会津藩のみ京都に残った。この頃すでに政治の中心は京都に移り江戸は幕権を失墜させていた。
6.3 7.18歳三、松五郎を訪ねるも会ってもらえず。 「天下浪士」捕縛のため芹沢、山南、永倉、沖田、近藤、平山、野口、斎藤、島田ら8名下坂、捕縛引渡し。その後、淀川で船涼み中斉藤腹痛にて下船、力士とすれちがいざま口論の末乱闘、近藤はこの一件を大坂西町奉行松平大隅守へ無礼討ちとして届け出る。公事方与力内山彦次郎はその原因を追究。 一説にはこの件を扱ったのは東町奉行所だという説あり、よって内山暗殺は新選組の仕業と決められない。
6.4 7.19将軍家茂の下坂に従い大坂城まで警護京屋に泊まる
6.10 7.25将軍家茂の帰東に従って警護に当たる松五郎に、近藤、土方酒を贈って送別の宴を張る。 江戸下谷和泉橋通医学所頭取緒方洪庵急逝。後任は松本良順
6.13 7.28  家茂、軍艦にて東帰のため天保山沖まで警護、その後京屋に帰陣の後帰途に就く
6.26 8.10  植村長兵衛、壬生浪士を語って金策したため千本通三条で斬殺。
6.29 8.13  浪士石塚岩雄、壬生浪士を騙って商家に押し入り、借財を強要する
6月    芹沢、永倉、沖田ら20名ばかり京相撲の勇川力蔵に桂川の川狩に招待される
6末    水口藩公用方、浪士組を批判する。一度は謝罪文を出す(永倉ら受け取る)。翌日、水口藩公用方友人戸田栄之助、浪士組屯所を訪ねて謝罪文の返済を嘆願する。翌日、水口藩陳謝和解のため島原の角屋に浪士組一同を招待、謝罪文の返済なる。この頃、芹沢鴨乱暴のあげく角屋に対し7日間の営業停止を言い渡す。日付不祥ながらも芹沢、近藤ら大坂巡羅のため下坂
7月    薩英戦争
7.2 8.15  壬生浪士を騙った石塚岩雄を大坂難波橋に梟首
7.4 8.17芹沢、近藤両人、大坂鴻池より230両借財する
7月    芹沢、新町吉田屋で遊女・小虎大夫の髪を切る(9月説有)
7月    歳三、浪士を斬った山南の刀を押型にして武州に送る
7.28 9.10  容保候、天皇の希望により天覧の馬揃え(軍事操練)を御所の建春門で行う。
8.1 9.13雨曇千本通朱雀野で佐々木愛次郎殺害される
8.7 9.19  八坂神社境内の北側で一週間の相撲興行を主催。『優しい新選組』をアピールする。《壬生の浪人多数集まり、取締致し候。いずれも木綿黒紋付き、白縞袴を着し、殊の外行儀よろしく御座候》
8.10 9.22佐伯又三郎、島原で芹沢に斬殺される
8.11 9.23  壬生新徳寺の池を掘り魚をすくって食べる
8.12 9.24壬生浪士組、今度は壬生で相撲興行を打つ。穏健に近所の人と馴染んでいき、この日の興行も成功裡に終わらせた。その近藤派に対して業を煮やした芹沢は、金談を申し込んで拒絶された大和屋庄兵衛の土蔵に発砲、焼き打ちにする(こんな時期に大砲もらっていたのか?)
8.13 9.25孝明天皇による「大和行幸」決定。(軍隊を持たない天皇が尊攘激派と共に自らの手で攘夷を実行する。)これは長州、真木泉、三条実美と結託して出した偽勅だった。討幕挙兵を目的とし関西諸藩を討幕軍に割り当てた配軍計画、軍事費計画も成り27日出発の予定だったとされる。
夜、会津藩公用局の秋月を薩摩藩士高崎佐太郎訪ねる。薩摩藩はこのころ公武合体派。会津藩と薩摩藩が手を結び長州の過激派と取り巻きの公家を一掃しようと持ちかける。薩摩藩は5月に殺害された姉小路公知卿の犯人として藩士田中新兵衛が自害したことにより御所乾御門の警備を解かれ主導権を失っていた。孝明帝も偽勅のことに気づかれ兵力を持った武臣で君側を清める任に当たるものがないことを嘆いていられるときき、この任に当たれるのは会津と薩摩に他ならない。と説く。容保候はこれを聞き即刻承諾、「会薩同盟」を結ぶ。長州は京都の武力制圧を目論んでいた。
8.16 9.28   孝明帝、会津、薩摩の覚悟を中川宮から伝えられ「兵力を持って国家の害を除くべし」と宸翰をもって命じる。
8.17 9.29  天誅組の蜂起」中山忠光(大納言中山忠能の第七子)天皇の大和行幸、春日大社参拝で親征の軍議を行う事に乗じて討幕の火付け役にならんと五条の代官鈴木源内ほか四人を斬首して蜂起。のち禁門の変で大和行幸が中止になるも後戻りできず高取城(奈良県)を攻めるが敗退。忠光は河内から大阪の長州藩邸に逃れのち下関へ行き長州の支藩長府藩に匿われる
8.18 9.30晴雨九つ刻(午前零時)禁門をすべて閉ざす。「八・一八の政変」
孝明帝、偽勅に怒り幕府と会津、薩摩の軍勢に宮門を守らせて御前会議を開く。この席で三条実美らの公家を罷免。長州も宮廷を追われる。「七卿落ち」。
文久2年11月末以来の「討幕派軽格志士の政権支配」の終わりとも言われている。
壬生浪士組、会津藩と同じ合印の黄色のたすきを受け取り、御所禁門警備を分担する(隊士52名出動、浅黄のだんだら着用)。南御門(建礼門)すなわち御花畑の前を警備。この日、武家伝奏より《新選組》の命名と共に市中取締りの命を受ける。受け持ち地域は「北蛸薬師通より南松原通迄、東は鴨川辺より西御土居際迄」
8.2110.3   三条木屋町へ桂小五郎を捕縛に向かうが不在。従者2名を捕らえる
8.2210.4 晴曇京都守護職からの命で早朝、歳三ら新選組、木屋町二条下ル山中成太郎宅(古東領左衛門方?)に平野次郎国臣を襲撃するが失敗。夜木屋町・祇園町・縄手四軒町寺町・壬生村に出張し不逞浪士41名捕縛。土方は縄手方面を担当。このとき長州藩士品川弥次郎が宿泊、土方の尋問を受ける
8.2410.6   未明に古東領左衛門方に潜伏との情報を得て踏み込むが平野は逃走、古東を捕縛。22~24日を「三条縄手の戦」現存する土方さんの鉢金の傷はこのときのもの?
9月    姫路藩主酒井雅楽頭の警備のため大阪八軒屋京屋に宿泊の際、よった芹沢吉田屋の仲居・お鹿と小寅の対応に激怒し土方に髪を切らせる。(7月説有)
9.7 10.19  新見錦(28)祇園『山の緒』にて、土方、沖田らに切腹させられる(?)
9.8 10.20  京都町奉行所より「松平肥後守殿御預浪士、市中昼夜見廻り候様、肥後守殿より被仰付候条、為心得持場限相達置候様可致事」と町触が伝えられる。
つまり新選組は京都市中見廻りの役目を京都守護職より命じられ町触れという形で京都の民衆に伝えられた
9.1310.25  田中伊織(新見錦の変名?)を斬殺
9.1410.26  近藤、会津藩公用方より呼び出され朝廷より芹沢捕縛の命令が下ったことを伝えられる。
9.1610.28島原の角屋で会合を開く。同夜四つ刻(午後10時頃)、八木邸にて酔眠中の芹沢(37)、平山(35)、平間を奇襲し、芹沢、平山を斬殺、平間は逃走。実行は土方、山南、沖田、原田
 芹沢鴨余市中乱暴致シ依テ御所表ヨリ召取可申様御沙汰コレ有
9.1810.30芹沢葬儀
9.2111.2   土佐藩主山内容堂土佐勤皇等の弾圧を始める。武市半平太投獄
9.2311.4   会津藩重役広沢富次郎、大野英馬の名で、近藤の養父周斉の病気見舞いの帰省が不可能との謝文を発送
9.2511.6   8.18の政変時の功労によって朝廷から下賜金を拝領す。感状もあり?
9.2611.7 長州間者として新選組に潜入した御倉伊勢武、荒木田左馬之允、楠小十郎の三人、前川邸屯所内で斬殺され、越後三郎、松井竜三郎、松永主計の三人は脱走する。芹沢斬殺の犯人としての見せしめか。
10.9 11.19  容保候右大臣二条斉敬公から呼び出され帝からの御書(御宸翰)と御製の歌を賜る。容保候の終生の宝物。
10.1011.20  近藤勇、諸藩周旋方と祇園の『一力』で会合、議論を交わす。幕府主導による攘夷を主張。
10.1211.22  「生野の変」代官不在であった生野(兵庫県)代官所(幕府直轄地である生野銀山の代官所)を襲撃。主将は沢宣嘉、平野国臣。沢は四国を経て徴収へ逃亡、平野は翌夜捕えられて六角獄へ送られのち禁門の変のとき斬殺される
10.1511.25  近藤、幕府からの新規召し抱えを辞し尽中報国を上書する。この頃京都守護職より、給料(歳三は月三両)を支給される
10.2011.30  この頃の歳三の拵えは、太刀に2尺8寸の和泉守兼定、脇差に1尺9寸5分の堀川国広(勇の手紙より)
11.9 12.19  堀田摂津守家来西条幸次郎、壬生浪士岩崎三郎を騙って、大文字屋源蔵宅へ無心
11.1112.21  西条幸次郎を捕らえ、西町奉行所へ突き出す
11.1612.26  一橋慶喜の大阪入城に従い下坂する。
11.1912.29  近藤、御所施薬院にて町奉行永井尚志と面談。
11.2112.31日野の松本捨助、屯所を訪れて入隊を乞うが許されずに帰郷する。
11月    歳三、郷里に自分宛の恋文を送る。小島鹿之助、平忠兵衛・作兵衛に手紙を出す
11月    彦五郎・芳三郎連名で代官の江川太郎左衛門に農兵取立願いを提出し農兵隊を結成彦五郎は隊長、息子の源之助と芳三郎長男隆之介が指揮官をつとめていた。
12月    幕府は市中の旅籠に向け一見の帯刀の客は一泊限りとし、連泊させない事と、宿泊客の在国名と姓名の確認を通達。
12.7 1.15  南部邸にて通夜。新選組の総代として佐之助が参列
12.10 1.18  南部邸の葬儀。新選組大挙して参列
12.19 1.21  「蛤御門の変」以後尊攘派の憎しみを集め孤立する会津藩を孝明帝は強く肯定する事で救う
12.27 2.4 家茂江戸出発、海路上京。この日芹沢派最後の野口健司切腹。
暮れ、幕府は新選組の処遇を決定。局長は大御番頭取の扱いで50両、副長は大御番頭で40両、副長助勤は大御番組で30両、平隊士は大御番並で10両を毎月支給

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